この街に暮らす
「花のみち」に遠い昔の面影。
阪急宝塚駅前から宝塚大劇場に続く「花のみち」は、桜の季節には爛漫の花のトンネルになる。周囲から小高くなったこの美しい道こそ、かつては住民を苦しめた武庫川の古い堤防の名残である。篠山盆地に端を発する武庫川は、途中、武田尾のあたりで断崖絶壁の渓谷に姿を変え、宝塚市街地で再びゆったり大らかに流れ始める。
しかし、いったん大雨が降ると手の付けられない荒れ川と化し、氾濫して川筋を変えた。江戸時代から幾度となく堤防が築かれ決壊した。
本格的な改修は大正から昭和の初め、10年近くの歳月をかけて行われ、今の宝塚の素地が整った。
始まりは、英国風の小さな駅から。
宝塚は、温泉や鉱泉にも恵まれた地であった。明治の中頃には、隣接の西宮市生瀬にJ.C.ルキンソンにより微発泡の炭酸ミネラル水の工場とリゾートホテルが、また武庫川沿いには宝塚温泉が誕生した。
鉄道といえば現在のJRしかなかったところに、明治43年、箕面有馬電気軌道(現阪急宝塚線)が開通。宝塚に、阪神間モダニズムの先駆けともいえるビクトリアン様式の洒落た駅舎に続き、人々をあっといわせた洋風大理石づくりの宝塚新温泉が、大正になると現在の宝塚歌劇の前身・宝塚少女歌劇がおめみえ。
また、西宝線(現阪急今津線)が開通し、さらに昭和にかけて動物園と東洋一の植物園があるルナパーク(後の宝塚ファミリーランド)が人気を集め、静かな宝塚が夢を誘う街、憧れの街へと変わっていった。
少年、手塚治虫が夢を追った街。
平成15年、宝塚ファミリーランドが閉園した後も、隣接する市立手塚治虫記念館は、マンガ好きの子どもたちや国内外からの熱烈なファンでにぎわっている。
マンガやアニメを日本が誇る国際的な文化へと育て上げた手塚治虫は、5歳の頃に宝塚へ移り住んだ。自宅のすぐ裏山が雑木林で、昆虫採集や観察に熱中していた様子が、記念館に収蔵されている自筆の昆虫図鑑からもわかる。
カメラが趣味だった父と宝塚歌劇の大ファンであった母、そして家族で宝塚ホテルでのクリスマス会を楽しんだというモダンな環境の中で、医学生となり同時に人気マンガ家としても完成された手塚治虫。
当時の子どもたち、若者たちの心を奪った手塚マンガの自由でのびやかな発想は、そんな幼い頃から宝塚の風土の中でじっくりと育まれていったに違いない。
日本に初めて華麗なパリ仕込みのレビューをもたらしたのは、宝塚少女歌劇(現・宝塚歌劇)だった。大正13年に誕生した旧宝塚大劇場は平成4年に幕を閉じ、翌年元日に開場した宝塚大劇場(中央奥)。右手は宝塚バウホール。
左:いつとはなく呼ばれるようになったらしい「花のみち」には、昭和12年にこの常夜灯が設置された。
右・上段:手塚治虫の数々の業績や、手塚作品のキャラクターを展示した手塚治虫記念館。少年時代の昆虫採集の記録や絵、初期のマンガ作品も興味深い。
市立手塚治虫記念館 宝塚市武庫川町7-65
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/
右・下段:宝来橋は、宝塚市内を流れる武庫川に初めてかかった橋。明治35年頃という。以来、何度となく洪水で流された。
平成6年にフランスの女性彫刻家マルタ・パンのデザインにより植樹帯のある美しいS字橋として生まれ変わった。

静かな山の手に一軒家のカフェ。
武庫川の対岸を山手にたどると、美しい住宅地、武庫山がある。静かな邸宅街の坂を上ると、「あら?」と目に留まる一軒があった。「カフェいぐれっく」、今、宝塚のおいしいもの好きの方の間で密やかに口コミで広まっているお店だ。カフェといっても、今流行りの若者たちの集いの場ではない。こちらは大人のためのカフェ。
レストランのように午後の閉店時間がないので、ふらりと立ち寄って、スフレやケーキでお茶したり、小腹がすいたら軽くテリーヌとサラダを頼んだり。また、ランチやディナーはおしゃべりしながらゆっくりと。思い思いのスタイルでくつろいで、おいしい本物のフレンチを味わえる。人々の暮らしになじんで愛されてきたパリの街角のカフェやビストロのようなお店なのだ。
華麗なる「伝説のレセプション」
「いつかこんな店を持てたら…というのが30年間の夢でした」物静かに、しかも熱く語るシェフの土田泰宏さんは、大阪万博の翌年大学を卒業して辻調理師専門学校へ進んだ。当時の校長は、創設者であり日本に本格的なフランス料理文化をもたらしたフランス料理研究家、辻静雄氏であった。氏のもとで4年間フランス料理の腕を磨いた土田さんは、「伝説のレセプション」と呼ばれた辻個人のサロンで開催される食事会の調理にも参加した。招かれた各界の著名人には、最高の素材が最高のメニューで贅を尽くしてふるまわれ、調理に携わった料理人にとっては生涯二度とできない夢のような経験であったという。
フレンチの巨匠がひとこと「ボン!」
土田さんには、もう一つ忘れられない思い出がある。当時はまだ西洋料理としてひとくくりにされていたフランス料理の本物を、と辻静雄が巨匠ポール・ボキューズ氏を日本へ招聘し、国内のシェフたちを前に講習会を開いた。土田さんは、そのサポートスタッフの1人として一緒に仕事をする幸運を得た。そして、自分が作ったスープの仕上がりを味見してもらったときに、鋭い眼差しで「ボン(いいぞ)!」と言われたときの感動は今も胸を熱くする。その後、土田さんはパリで暮らし、本場の一流店の味を食べ歩いて、フランス料理を体で覚え込み、実家の洋菓子会社に勤務した。30年間、フランス料理とあのときの感動は封印された。
サブリナが習ったパリのお菓子、スフレ
オードリー・ヘップバーンのお洒落な映画「麗しのサブリナ」に、主人公がパリの料理学校で学ぶ傑作シーンがある。卵を片手で割るレッスン、作っていたのはスフレ。「幸せな恋をしている女性はスフレを焦がす。不幸な恋をしている女性はオーヴンのスイッチを入れ忘れる」小粋なセリフが物語るほど、スフレはフランスを代表するデザートであり、デリケート。
土田さんの「いつか…」の夢にいつも登場したのが、このスフレだった。素材にこだわって時間と手間をかけ、難しいタイミングを逃さず焼き上げたスフレは、空気のように軽やかな中に、フランス料理の持つ何とも幸せな満足感が詰まっている。
夫婦2人で夢の扉を開いて
じっと温めてきた夢をかたちにしたい。2005年、土田さんは第二の人生を歩みだした。「一緒に夢を見ませんか」と誘ってくれたのが、カフェのこの土地のオーナー小島氏だった。高齢化が進むこれからの日々に、お歳を召した方にもくつろいでいただける店を作ろう。
オーナーとの思いが一致した。土田さんは30年間封印してきた心の引き出しを一つずつ開けるように、あの大家たちに学んだ「本物」の作り方と味を、素材一つ、調味料一つにこだわり、よみがえらせていった。サービス担当は奥様の敬子さん。
作る側とお客様とが直接言葉を交わせて、いつも新たな刺激がある。それまで主婦業ひとすじだった奥様にも、思いがけない、そして充実感に満ちた日々が始まった。
本物だけをいつもの味で。
「ここのシーザーズサラダは本物」「パリで食べたオニオングラタンスープと同じ味」来店されたお客様は、なにがしか声をかけてくださる。「2人で始めてよかった」と土田さんは語る。「宝塚という街だからこそ、お客様がわかってくださる。そして、何度も足を運んでいただける。手も気も抜かず丁寧に、当たり前のことをしているのが、お客様に認められる。それが何よりうれしい」土田さんは夢を叶えた幸せを語る。お客様の中には90代の方もいて、お付きの方と来られ煮込み料理をいつも残さず召し上がる。何度食べても飽きない、しばらくするとまた食べたくなる味。だから、いつも同じメニューを作り続ける。店の中には、どこか懐かしい暖かな空気が漂っていた。
駅に近い宝来橋を渡って、通称「トントン坂」の階段を上がる近道もある。カフェいぐれっく
宝塚市武庫山2-1-18
TEL0797-74-0523 AM10:00?PM7:00(LO)/火曜日定休
http://www.cafe-igrek.com/
待つことがこんなに楽しいなんて。20数分でオーブンから登場のスフレ。大ぶりのカップから5?6cmはふくらんだ焼きたてに、オレンジのリキュール・グランマニエを振りかけて。スプーンでくずしながら、お口へ。カリッ、ハリッ、ふわっ、とろ?り…いろんな食感のハーモニーに思わず夢中に。お料理はテイクアウトもOK。

かつて宝塚歌劇に男子がいた!?大正時代から何度か試みられた宝塚歌劇団への男性加入が、最も現実味を帯びていたのが敗戦直後の昭和20年から27年まで募集、29年に解散した男子研究生たち。歴史に埋もれさせたくないと著者がその当時のいきさつや、研究生たちのその後を追った。話題を呼んだこの1冊が、昨年、舞台「宝塚BOYS」となった。大好評のうちにフィナーレを迎えたが、今年8月、東京日比谷シアタークリエでの再演が決定した。
公式HP http://www.takarazuka-boys.jp/
「男たちの宝塚?夢を追った研究生の半世紀?」
辻則彦著(神戸新聞総合出版センター)
1400円(税別)

宝塚歌劇の熱烈なファンで知られる田辺聖子さんが、その思いを1冊の夢見るような本にした。大阪の下町の畳文化で育った子供時代に、夢のようにまばゆかった宝塚大劇場。胸躍らせた赤い絨毯と、開幕前のオーケストラの音合わせ。まだ見たこともないヨーロッパのモダンな香り…その頃から今日まで、宝塚は田辺さんの人生と共にある。美しいもの、感動するものがある人生がどれだけ豊かであるか、読むうちに幸福感に包まれる。読んでみたい方は図書館で探してみては。
「夢の菓子をたべて-わが愛の宝塚」田辺聖子著(講談社)
昭和58年発行
