この街に暮らす
万葉集にも詠まれた「むこやま」
六甲山系は西は須磨あたり、東は宝塚あたりまで裾野を広げている。
主峰は標高931mの六甲山。6つどころか、再度山や摩耶山、東お多福山、甲山などたくさんの山々が集まっている。なのになぜ六甲山?実は奈良・平安の時代には「むこやま」(牟古山、務古山、六児山など)と書かれ、万葉集などに登場している。
「むこ」は、武庫川や武庫之荘にも見られる。その語源は難波の地から見て「向こう」とも、南方から渡ってきた古代日本人のルーツの1つ、ポリネシアの言葉「ム・コウ」(静かな切り株?コブのような山の意)とも、またアイヌ語の「ムコ」と呼ばれる植物の名前とも言われている。
年中雪をいただくその理由。
今でこそ緑豊かな六甲山だが、江戸時代から明治の始め、瀬戸内海を往来する船から見る山々は、年中雪を頂いていた。後の植物学者、牧野富太郎が上京する途中、船から六甲の山々が白く冠雪したように見えて驚いたというエピソードが残っている。
雪とは、むき出しになった御影石(花崗岩)などの岩肌であった。特に南麓では生活のために人々は木を切り、灯りや燃料にした。日当たりがよいため乾燥も進む。当時はあちこちの川に菜種油を搾る水車小屋が並ぶのどかな風景であったが、いったん大雨が降ると土砂が流れ出し、被害が大きくなった。
100年の森に花や野鳥のパラダイス。
六甲山が緑の山に変わるきっかけは、明治25年に起こった大規模な水害であった。これを機に法律が整備され、六甲山から流れ出す川の本流から支流までが整備され、木が植えられた。明治から始まって大正、昭和へと受け継がれたこの大事業のおかげで、六甲山は緑に覆われ、保水力を回復し自然の力を蓄えてきた。
およそ100年の時をかけた人々の手で、はるか縄文時代からという緑の系譜が再びつながった。平成の今は、植林された当時の木々から、ゆっくりと本来の六甲山にあった木々へと入れ替わっているという。有志たちによるブナの植林も続いている。花々が咲き秋には実って、動物や野鳥、昆虫を育む。特に春から初夏はツツジ、夏はアジサイの名所でもある。
左:山の気分が味わえる山頂への足、六甲ケーブル。
右:山頂には、サンセット、サンライズ両ドライブウェイなどカタカナの地名が多い。
六甲高山植物園は昭和8年開園。
植物学者・ 牧野富太郎の指導を受けた由緒ある植物園だ。
かつては天然のアイススケート場としてにぎわった三国池。
居留地101番の主がひらいたリゾート。
ただ眺めるだけの六甲山を、リフレッシュやスポーツを楽しむ場へと変えたのが、英国人アーサー・H・グルームであった。
明治元年、神戸港開港の年に来日。神戸居留地の101番で日本茶を輸出しセイロン紅茶を輸入する貿易商を営むかたわら、休日には六甲山への登山や狩猟を楽しみ、やがて明治28年に山上の三国池湖畔に山荘を建てた。「101番屋敷」と呼ばれた山荘の誕生が、リゾート・六甲山の誕生であった。私財を投じて道をひらき、植林をして、数年後には4ホールの小さなゴルフ場を開いた。
プレーを楽しんだのはグルームと、彼に続いて別荘を建てた外国人たち。ここから日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」が生まれ、今もゴルフを愛する人々の記念碑的な存在となっている。
日本人を妻とし日本に骨を埋めたグルームを偲んで、毎年7月の第1日曜日には、六甲の夏山開き「グルーム祭」が山上の恒例行事となっている。
ロープウェイと六甲山を愛した駅長さん。
外国人たちの避暑地であった六甲山を、市民のレクリエーションの場に変えたのが「足」。山頂への足といえばまずケーブルカーとなるが、それより1年早く開業した人気の乗物があった。
それが、六甲登山ロープウェイだ。昭和6年に開業、やがて太平洋戦争が始まり鉄材供出のため撤去されるまで、ゆうゆうと谷や山肌の上空を進んで人々の夢を運んだ。山上の駅は現在の六甲山ホテルの前にあった。その駅長を務めていた高岡勇さんは、六甲山上に暮らし、人生の大半を六甲山に捧げた方だ。仕事の合間には広い山頂エリアのすみずみを歩いて地理を覚え、野鳥や植物を観察した。終戦の翌年、戦地から復員した高岡さんは、変わり果てた六甲山上を見て茫然としたことだろう。道路も施設もすっかり荒廃して、戦前のリゾートの面影はみじんもなくなっていたからだ。
平和が戻ってきた六甲山ホテルの支配人に。
夏は外国人ら避暑客で華やぎ、冬はスキー、スケートなどウィンタースポーツで賑わっていた戦前の六甲山ホテル。しかし、戦争中は軍関係の宿泊所となり、終戦後は占領軍によりドイツ人捕虜収容所となった。
昭和23年に返還された当時は、無惨なまでに荒れ果てていたという。高岡さんは黙々とホテルの管理と修理にあたった。努力が実って、市民のリゾートがよみがえった。高岡さんは再開したホテルの支配人となった。当時、六甲山を訪れた人々の間で、ホテルが発行した山頂周辺の案内図が重宝がられた。小径や小さな池、滝に至るまでくわしく描かれた図は、戦前から戦後、高岡さんが足で歩いて作成したもの。そこには六甲山への愛がこもっている。
旧居留地・名ホテルから生まれたパン屋さん。
一方、明治時代にグルームの貿易商社があった旧居留地に、阪神淡路大震災後ひっそりと幕を閉じた名ホテルがあった。明治3年頃に79番にて開業、現存すれば日本最古のホテルといわれた旧オリエンタルホテルだ。後に移転し、京町筋の現・神戸市立博物館の隣にあった。
シックな建物の屋上には海図にも載る公式の灯台があったという。
神戸に本格的な洋食やパン、洋菓子の文化を根付かせたホテルであった。その厨房で約30年、パンとケーキを焼き続けてきた方が、ホテル閉業から3年後、長年の夢であったご夫婦二人の店を開店した。
「フォルト ファーレン」、ドイツ語で「出発」というお二人の気持ちをこめた名前だ。
神様が毎朝くださる幸せのご褒美を。
主の金澤豊勝さんは、毎朝3時過ぎには店に入る。スーパー等級の粉と純正のバター、灘の宮水にこだわって生地を仕込み、2度の発酵とベンチタイム…焼き上がるまでに4?5時間はかかる作業を毎朝続けている。オリエンタルホテル正統の製法だ。やがて焼き上がる頃には、よい材料と手間をかけたパンだけの何ともいえずいい匂いで満たされる。
「引き込まれるような匂い」がたまらなくて、毎朝つまみ食いをする。
「焼きたての最も美味しい一口は、神様がくれたご褒美のような気がする」。
そう言って、ちょっぴりシャイな笑いを浮かべるご主人を、奥様の千鶴さんが笑顔で見守る。大ぜいのお客に愛される小さなお店に、もうすぐ10周年が訪れる。
a.戦前まで活躍した夢のロープウェイ。ゴルフに興じる人々。現在の「神戸ゴルフ倶楽部」。
b.雪の晴れ間の青空がきれい。正面は六甲山ホテル。
c.山頂には天然のスケートリンクがいくつもあった。
d.ゴルフに興じる人々。現在の「神戸ゴルフ倶楽部」。
↑昭和4年開業。
右手の旧館が歴史を物語る六甲山ホテル。
→手塩にかけた六甲山ホテルの前に立つ支配人、高岡さん。
左:ハート形をした人気のドライパイ。出来上がるまで約1週間の手間がかかる。旧オリエンタルホテルの結婚式の引き出物であった。
右:違いがわかるのはミミ。旨みが凝縮していて、さくっと口どけがよい。
平成20年に10周年を迎えるおいしいパン&ケーキのお店。
灘小学校の南側に面している。
フォルト ファーレン 神戸市灘区上河原通1-3-17
TEL&FAX 078-802-4561定休日/日曜日(年始は休業) http://foruto.fc2web.com
