この街に暮らす
川あり、海ありの大らかな風景。
丹波高地の山から流れ出る小川が、三田盆地、武庫川渓谷から武田尾温泉、宝塚歌劇場のそばを流れ、やがて松並木と緑の河川公園を従えてゆったりと大阪湾へ注いでゆく。
阪神間東部の明るくのびやかな風景は、武庫川によるところが大きい。川の西岸に、大正の終わり頃、夢いっぱいに新しい住宅地が開かれた。
「西宮七園」と呼ばれた高級住宅地の一つ、甲子園であった。
郊外電車が運んだモダニズムの気運。
明治の後期、日清戦争後の大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどの大発展を遂げ、日本最大の経済工業都市となった。それに伴い、港を抱く神戸も活気に包まれていた。
2つの都市を結んで、日本で初めて当時最新のアメリカのインターアーバン(都市間電車)をお手本に、阪神電気鉄道や阪神急行電鉄神戸本線(阪急神戸線)が開通し、健康で文化的な郊外生活を謳った。人口が過密する市街地から、六甲山と白砂青松の美しい海岸風景が続く阪神間へ、豪商たちや政治家、文化人らが競うように別荘を構え居を移した。
加えて、ロシア革命の戦火を逃れ亡命した人々などの外国人や、関東大震災の混乱から東京を離れ関西へ移り住んだ家族も阪神間に集まった。
後に「阪神間モダニズム」と呼ばれるようになった洋風の新しい建築や絵画、音楽などの潮流やライフスタイルは、こんな背景から醸成された。
かつて素晴らしいリゾートホテルがあった。
風光明媚な武庫川河畔に、「阪神間モダニズム」を象徴する建物がある。現在は武庫川女子大学建築学科・大学院建築学専攻の校舎、甲子園会館として使用されている旧甲子園ホテルだ。
関西財界の尽力で昭和5年(1930年)に開業したこのホテルは、アメリカの建築家ライトの愛弟子、遠藤 新により設計され「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称された。
当時は船遊びが楽しめた大庭園やテニスコートがあり、ラストエンペラー・溥儀をはじめ数多の歴史を彩った人物がステイしたという。
武庫川の河川敷は松並木に沿って約7kmのサイクリング専用道路に。ジョギングコースとしても人気。
海浜公園が整備された甲子園浜の西隣は、酒蔵が並ぶ灘五郷の一つ、今津郷。酒を運ぶ航路を照らした今津灯台は、今も現役で活躍中。
ため息が出るほど典麗な旧甲子園ホテルは、第2次大戦後、米進駐軍の将校宿舎とクラブに。その後二度とホテルとして用いられることはなかったが、現在では武庫川女子大学建築学科のこの上なく贅沢な校舎として新しい使命を果たしている。
学校帰りに、海辺で少女たちは夢を語った。
大正12年(1923年)の関東大震災後に、ある家族が東京から阪神電車「甲子園」駅そばの鳴尾村に引っ越してきた。震災の年に生まれた女の子は小学校5年生の時に甲子園五番町に引っ越し、多感な少女時代を送った。
当時は家並みが途切れたあたりから松林が続く武庫川の土手まで、広大なイチゴ畑が続いていた。
シーズンになると、一帯が甘酸っぱい香りに包まれイチゴ狩りの家族連れで賑わったという。また、「甲子園」駅から海まではプラタナスの並木道を両側に従えて、路面電車が走っていた。少女はプラタナスの並木の下を友だちと肩を並べて歩き、砂浜に座っておだやかな瀬戸内海を眺めたり、近くにあった水族館で道草を食った。
阪神間ゆかりの昭和の文学者たち。
やがて甲南高等女学校に進んだ少女は、通学の途中に出会う男子校の灘高生たちの注目を集めた。
その少女・佐藤愛子を淡い想いを抱いて眺めていた高校生が、後の作家・遠藤周作と料亭「灘万」の御曹司でもあった俳人・楠本憲吉だった。
愛子の父は作家の佐藤紅緑。その父は津軽藩士で、明治維新後も武士の気概を持ち続けた“頑固者”として知られた。紅緑は型破りのワルとして育ち父を手こずらせた。やがて正岡子規の門下四天王として俳句、さらに戯曲を手がけ、新聞小説や少年小説で当代きってのベストセラー作家となった。同じ紅緑を父とする愛子の異母兄の一人が、東京で暮らす詩人のサトウハチローであった。
大長編小説「血脈」と佐藤愛子。
サトウハチローは詩人として、また「ちいさい秋みつけた」「かわいいかくれんぼ」などの童謡や「リンゴの歌」「長崎の鐘」など戦後を象徴する歌謡曲の作詞家でもあった。
ほのぼのしてやさしい作風とは裏腹に、筆者の言葉によると「自分のために世界が回っていると思っている」放蕩息子を絵に描いたような人物だったという。
愛子は父とその兄に、また一族に脈々と流れる津軽の「荒ぶる血」を見る。そして12年の歳月をかけて佐藤家一族の生き様を書き上げた。大作「血脈」である。
右側の土手まで、かつては鳴尾のイチゴ畑が続き、甘酸っぱいイチゴの香りが郷愁を誘った

住宅地の中に白砂青松の海辺の名残を見る。
南は大阪湾まで南北に細長い甲子園。四季折々に美しい家並みが続く。
佐藤愛子「血脈」全3巻は、大正、昭和、平成の三代にわたる佐藤家の「荒ぶる血」を描いた話題の大河小説だ。
12年をかけた大作だが、著者は苦しみながらも「恐山のイタコのように」書き上げた。後に、その執筆の日々こそが幸福な日々だったと述懐する。第48回菊池寛賞受賞。
「血脈」(文藝春秋)上・中・下巻各2000円(税別)、
「『血脈』と私」(文藝春秋)1333円(税別)
今も息づくモダニズムの系譜。
「阪神間モダニズム」の時代は遠くなっても、その精神は阪神間の地に根付いている。暮らしの豊かさを物語るように、甲子園界隈には街と共にある魅力的なお店が多い。そんな一つがドイツ菓子の「カーベ・カイザー」だ。
オーナーシェフはお菓子職人としての修業時代に、菓子職人のマイスターであるドイツ人からマンツーマンで基礎を教わる幸運を得た。その後、渡独しハンブルグの名店で腕を磨き、寄宿していた家庭で暮らしにあるお菓子やホームパーティなどの生活文化を体験した。
知恵、工夫、技術を尽くしたドイツ菓子の粋を。
「洋菓子の華といえるフランス菓子は、豊かな風土で育った材料に芸術的なセンスを加えて完成された。
それとは対照的に、厳しい気候風土で育った決して恵まれたとはいえない材料を、知恵と工夫、そして技術で上質なお菓子に焼き上げる。それがドイツ菓子の魅力」そう語るオーナーシェフの大隅稔雄さんは、もともとは関東の方。
古い慣習と大学で教鞭を執る父親の重圧から逃れたい一心で関西へ来たという。菓子職人となって1年後、父から手紙が届いた。親が望む国家資格の後ろ盾がある生活を拒んで自分の道を選んだ息子へ、不断の努力と研鑽のみが力となる道であることをさとした手紙であった。
以来、どんな時にもこの手紙を思い起こし、原点にたち返った。正統にこだわる大隅さんのお菓子作りは、甲子園という街にひとあじ深い風味を添えている。
変わる甲子園球場から新しい風が。
甲子園という街の誕生は、大正13年(1924年)にさかのぼる。60年で一回りする十干十二支の最初、甲子(きのえね)の年に、そのめでたい名前をいただいた甲子園大運動場(現・甲子園球場)が完成した。ニューヨーク・ジャイアンツの本拠地であったポログラウンドをモデルに設計されたといわれる東洋一の大スタジアム。住宅地・甲子園の開発もここからスタートした。
今秋、プロ野球公式戦が終わるといよいよ球場の全面的なリニューアル工事が始まる。3期に分けて野球シーズン終了後に行われる工事が完了するのは2010年春の予定だ。甲子園の街にどんな新風が吹くのだろう。
モダニズムを伝える瀟洒なスペイン風洋館。実業家・新田長次郎温山翁が息子のために建てたもの。後に私財を投じて興した松山大学(愛媛県)の温山記念会館となっている。

気候風土のハンディを知恵で超えたドイツの焼き菓子は、粉一つとっても、小麦粉だけでなく、精製した小麦粉のでんぷんやアーモンド粉が加わって多彩だ。そうそうたる顔ぶれのファンがこちらのお菓子に相好を崩す。

ドイツでは温かい料理は昼に、夕食にはパンとハムなどであまり手をかけない。それはお母さんがキッチンよりも食卓にいて、家族で会話をすることを大切にしているからなのだそう。大隅さんは肌でドイツの家庭や暮らしを知った。。
甲子園の街並みに上質な風景を添えるお店。今頃は緑や花がきれい。
「カーベ・カイザー」西宮市甲子園四番町1-31
TEL:0120-47-2466
http://www.k-b-kaiser.co.jp
大正生まれの甲子園球場が伝統と風格をそのままに、2010年快適な最新の球場へとリニューアルする。完成当時のように再び内野席が銀傘に覆われ、今のツタの種子から育った2世のツタをまとう新しい姿が楽しみだ
