ゆめひとくらし
HOME > ゆめひとくらし > 暮らしの上質時間 vol.23
華ひらく、花の扇子華ひらく、花の扇子華ひらく、花の扇子

「あいつも定年になって、昼間は家に居づらいらしいわ」 …うん?あいつも居づらいってことは、あなたも?言葉尻にひっかかりを感じたが、心の中で(気にしない、気にしない)といつものおまじないを唱えた。このおまじないは、四六時中、2人暮らしを再開することになって編み出した暮らしの知恵である。夫は次々に定年を迎えて「家に居づらくなった」同期3人組の友人たちと、小唄を習いに通っている。在職中に会社の人事部が主催するライフプランセミナーで、「趣味を持ちなさい」とアドバイスされ、3人で相談して始めたのだ。

「えっ?小唄?」はじめて聞いたときはびっくりした。そんな趣味があったっけ?音楽といえばいまだに大のビートルズファン。堅苦しいことは大の苦手で、正座だってものの3分も持たずもそもそ動き出す夫が?きっと続くわけがない。内心、ふふんとあしらった。ところが、そんな予想に反して、今なお週末になると夫はいそいそと三味線をかかえて電車で出かける。車に乗らないわけは、言わずと知れたお稽古後の飲み会のためだ。

小唄のお師匠さんの桜子先生は、ご主人の転勤でこちらに引っ越して来られたとかで、「和服が似合う絶世の美人」なのだそうである。小唄を始めるのと時を同じくして、夫のお洒落にも熱が入りだした。結構ジミ色好みだったのが、この春先にはラベンダー色のセーターを買ってきて、お稽古のある週末にはさっそく袖を通してご満悦だ。気がつくと洗面所の棚に、外国雑誌で見るような“カッコ渋い”ブランド化粧品が並んでいる。ローション、スキンミルク、整髪料…夫のときめきが伝わってくるようだ。 こうなると、微笑ましいというか、わかりやすさに思わず口もとがゆるんだ。

その桜子先生の小唄教室が、突然クローズすることになった。ご主人の急な転勤でロンドンへ引っ越すことになったのだ。その落胆ぶりにつられたわけではないが、こちらもシュンとしてしまった。 夫がいそいそ出かける日は、私のリフレッシュデー。気になる美術展へふらっと出かけたり、友だちと夜ごはんを食べたり、身軽に好きなことが楽しめた日だったのに…。

いよいよ最後のお稽古の日がきた。お稽古の後は“目玉が飛び出るほど高い”天ぷら屋を予約して、大ふんぱつした3人組主催のお別れパーティ。珍しくタクシーで帰宅した夫の手には小さな包みがあった。開くと何やらゆかしい細い箱があり、中から出てきたのは小ぶりの扇子。

夫が開くと見事にあでやかな桜柄が広がった。「ああ、桜子先生はこんな感じや」…私はダイニングテーブルのそばの飾り棚の上に、そっと立てかけた。夫がイスに座ると自然に目に入る位置だ。扇子の桜は、夫の淡い片想いを映すようにリビングに爛漫の春を運んでくれた。

宮脇賣扇庵 京都市中京区六角通富小路東入ル大黒町80-3 TEL 075-221-0181


ページトップへ