マタイ伝にあるこの言葉には、新しい考え方や行動は新しいカタチで表してこそ、そのよさが生きる、といった意味があるそうだ。伊丹の歴史をひもときながら街を散策すると、新しき酒・新しき革袋の例えがこれほど似合う街は他にないのではと思う。
戦国時代の伊丹は、織田信長の保護を受けたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが「はなはだ壮大にして見事なる城」と驚いたように、城下町ぐるみ、堀で守られた町であった。その後、城は信長軍の攻めにあい落城。城なきあとの城下町は、酒造りの町人の町へと変身を遂げていった。やがて秀吉の時代から江戸時代に、伊丹の酒は日本のナンバーワンブランドになる。伊丹はかつての城下町全体が酒造りで活気づき、ピーク時には90軒近くもの酒造屋が軒を並べた。
にぎわった背景には酒造りの高い技術力があった。日本酒といえば素朴な濁り酒が当たり前であったが、伊丹では最先端の「伊丹諸白」と呼ばれる、精白米だけを用いた澄んだ清酒を造っていた。また今日の酒造りの基本でもある三段仕込みの技術が確立された。これは、ぶどうから一気に酒を造るワインとは違って、まず発酵により酒母と呼ばれる酵母を育て、そこに酵母を疲れさせないように4日かけ3回に分けて、こうじと蒸し米、水を加える。でんぷんの糖化とアルコール発酵の2つのプロセスを同時並行で行うという、世界にも類を見ない複雑で高度な酒造りだ。この三段仕込みにより、ビールが最大9%、ワインが14%に対して、日本酒は19%と醸造酒の中でも最高水準のアルコール分を誇る。
白雪ブルワリービレッジ長寿蔵
酒蔵のある美しい街並み。右の築約200年の蔵は、天井の高い建物を活かし、地ビールと日本酒の醸造所、その造りたてが楽しめるレストラン、酒造りのミュージアムとして活躍中。
中央3-4-15
TEL:072-773-1111
ミュージアムには昔の酒造りの道具が展示されている。
ベルギーから直輸入のビール醸造設備が間近で見られる。もちろん醸造中。(写真:上)
酒蔵の太い柱やハリを活かした、ヨーロッパ調のビアレストラン。造りたての地ビールや日本酒と、ベルギー名物ムール貝料理、ヘルシーな日本料理などが楽しめる。
ブルワリーレストラン
TEL:072-773-1323
AM11:30〜PM10:30 / 第2火曜日定休
1550年、後に伊丹の歴史を大きく変えた織田信長がまだ少年の頃、この町に創業したのが、小西酒造だ。今年456周年を迎えたという長い歴史があり、「白雪」は現存する日本酒の最古のブランドという。
小西家は江戸時代の初めには清酒造りを本業とし、当時の発展途上の大都会・江戸へ馬で運んでいた。ところが、大阪方面から来る酒が江戸の酒の7〜9割を占めるほどになると、よりスピードアップが求められる。そこで、酒樽だけを積み“快速樽廻船”で江戸へ4〜5日で運ぶ運送業を始め、また江戸に酒問屋を開いて今でいうマーケティングにも積極的に乗り出すという斬新な動きで周囲の目を見張らせた。
古今東西、うまい酒は風流につながり、文化を醸成する。「白雪」に特別な思いを寄せ、多彩な顔ぶれの文人墨客が小西家に集まった。書画や茶、禅にも秀でていた宮本武蔵をはじめ、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門、頼山陽らそうそうたる顔ぶれが滞在し、創作したり交流を深めたという。明治の初めには、好きなだけ逗留し、食事やお酒をふるまってやっかい(お世話)をさせていただく専用の建物「やっかい長屋」ができて賑わったが、惜しくも震災で失われてしまった。
また、江戸中期には日本三大私設剣道場のひとつ「修武館」を開設。明治維新後、活躍の場をなくした人々をここで厚遇したり、明治初期には学校(現・市立伊丹小学校)を開校するなど、地元にも貢献してきた。
小西酒造の15代当主で社長の小西新太郎氏には、夢があった。英国へ留学したときにパブで覚えたエールの味が忘れられない。エールは上面発酵の酵母で造ったビールで、日本の下面発酵のラガーとは異なるタイプ。実は英国やベルギーなどの多彩な地ビール文化は、日本人の未経験ゾーン。いつか日本に輸入して、これからの多様化する嗜好に応えたい。
1985年、チャンスがやってきた。伊丹市とベルギーのハッセルト市が姉妹都市となったのを機に、ベルギービールの輸入販売という新たな展開が始まった。それからほぼ20年、ベルギービールは確実に存在感を増している。その一方でビール製造免許を取得して、伊丹の地下水を使った地ビールの製造もスタート。日本酒、ビールとくれば、次はワイン。これで主な醸造酒を網羅できる。こちらもひょんなところから話が来た。広島県世羅町に開園した「せら夢公園」内のワイナリーでワイン醸造を手掛けることになったのだ。来年もまた新しい何かが起こる!?
伊丹のランドマークでもある小西酒造本社(中央3丁目)。
江戸時代の学者で詩人の頼山陽は「白雪」を讃えた詩を贈った。その筆跡を後年、大きな一枚板に再現したもの。長い間、以前の本社の軒に堂々と掲げられていた。
江戸まで4〜5日で酒を運んだ樽廻船。
された復刻酒が、「江戸元禄の酒」の名で商品に加えられた。
 
地図には記されていないが、堀で守られた昔の城下町エリアは、今も「伊丹郷町」と呼ばれている。その北端にある猪名野神社は伊丹郷町の氏神であった。境内から始まり昆陽池に至る伊丹緑道は、素敵な散歩道だ。右手に市街地が見晴らせ、左手はさらに高い丘になっている。かつてこの春日丘に、実業家・白洲文平の大邸宅があった。文平はハーバード大学卒業後ドイツのボンに学び、綿貿易で巨万の富を築いたが、金融恐慌のあおりを受けて破産した。建築道楽として知られる文平のこの最後の豪邸は、4万坪の敷地にモネやマティス、ピカソらの作品を集めた美術館や牡丹畑のある壮大なものであったという。
白洲文平の次男が、終戦直後より吉田茂首相の懐刀として、GHQ(連合軍総司令部)との折衝にあたり「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白洲次郎(1902〜1985)である。英国ケンブリッジ大に学び、一流のダンディズムとプリンシプル(自分の信条)を貫いた。長身でハンサム、スポーツ万能。日本人で初めてジーンズをはいた人といわれ、晩年まで愛車ポルシェを乗り回した。その妻・正子(1910〜1998)は貴族の家に生まれた正真正銘のセレブリティ。幼少期より能を習い、伝統の芸能や芸術に造詣を深め、日本の美について数々のエッセイを著す。18歳の時に兄の友人の次郎と出会い、翌年結婚。その婚姻届は伊丹市役所で受理された。
31歳の若さで夭逝した梶井基次郎(1901〜1932)は、中学や高校の教科書にも掲載されている短編集「檸檬(れもん)」で、今なお人気の作家だ。三高から現在の東大へ進み小説家を志したが、肺結核のために転地療養で川端康成のいる伊豆へ。川端や詩人の三好達治、宇野千代らと交流を深め、作品を書き続けた。結局、卒業を断念して大阪に帰ったが、最晩年の1年半ほどを母と共に兄のいる伊丹で暮らしている。永遠のベストセラー「檸檬」の新刊本を、基次郎は伊丹で手にしたはずだ。淡々と澄みきった心境で書かれた「禁烟日記」の一節が、住宅地の一角の碑に刻まれている。その碑は静かに空を映していた。
伊丹緑道はこの猪名野神社から北へ延び、緑ヶ丘公園、瑞ヶ池公園、昆陽池へと絶好の散歩コース。
日本列島の島がある昆陽池。伊丹空港を離陸すると眼下に見える。
白洲次郎
「風の男 白洲次郎」青柳恵介著/
新潮文庫 400円(税別)
「プリンシプルのない日本」
白洲次郎著/新潮文庫 476円(税別)
「檸檬(れもん)」
梶井基次郎著/新潮文庫
400円(税別)
  白洲正子
文藝別冊「総特集 白洲正子」
河出書房新社 1143円(税別)
「白洲正子“ほんもの”の生活」
とんぼの本/新潮社 1500円(税別)
「五月六日 庭にはイチハツが盛りを過ぎ、平戸がさきはじめ、薔薇は日光の下にその新しい芽をうな垂れている。…後略(禁烟日記)」梶井基次郎の歌碑(千僧3丁目)。
※2006年10月取材
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