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戦前のヨーロッパでヴァイオリニストとして活躍。その後、指揮者として1930年代にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のタクトを振った、華麗な経歴を持つ音楽家がいました。その名は貴志康一。大正8年(1919年)、小学生の時に大阪から伊勢町に転居。資産家の父は子どもたちの健康のために芦屋の浜辺に日本家屋を建て、音楽室を備えた洋館を増築し「メゾン・ダンファン(子供の家)」と命名して、わが子たちに惜しみない愛情と芸術にふれるチャンスを与えた人でした。絵にも天賦の才を発揮した貴志でしたが、色覚のハンディに気づき、中断していたヴァイオリンの練習に熱中します。
ある夜、その練習の音色を偶然に耳にした亡命ロシア人のヴァイオリニストが、バルコニーから突然現れ「あなたの指導をさせてほしい」と申し出たことから、本格的なヴァイオリンの道へと歩みだしたのでした。 |
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17歳の貴志は旧制甲南高等学校を2年で中退し、ジュネーブ国立音楽院へ単身留学。その後さまざまな曲折を経て、ドイツを舞台に作曲や指揮で評価を高めていきます。指揮の巨匠フルトヴェングラーやベルリン・フィルなど当時の最高峰の音楽家たちとも交流を深め、交響曲、オペレッタ、バレエ音楽とエネルギッシュに創作を続けました。さらに、活躍の場を映画演劇へと広げ、父の出資を得て日本に「貴志学術映画研究所」を設立。
新しい映画を模索する研究者たちと、当時の日本の生活文化を紹介する短編映画を作り、自ら監督・俳優・音楽を担当します。その作品「春」と新たにドイツで見つかった「鏡」の2編は、昨年夏に東京国立近代美術館フィルムセンターで上映され、話題を呼びました。 |
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昭和10年、26歳で3回目の渡欧から帰国した貴志は、翌年、観客の列が日比谷公会堂を一周したと伝えられる「第九」のコンサートで大成功を収めます。全曲を暗譜で華麗に指揮する貴志の姿は後年まで語り草になったとか。
また文化使節として来日したピアノの大御所ウィルヘルム・ケンプとの演奏会も話題を呼び、日本のクラシック音楽界で揺るぎない地位を確立しました。ところが夢叶ったその年に、多忙な中で盲腸炎をこじらせ、翌年28歳の若さで突然、世を去ったのでした。 |
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昭和24年(1949年)スウェーデン・ストックホルムで開かれた華麗なノーベル晩餐会で、湯川博士の栄誉を讃え演奏された日本の曲を聴いて、同席した夫人は涙が出るほど感動したといいます。その曲は、夫人の女学校時代からの友の兄が作曲した「竹取物語」だったからです。奇しくも貴志は世を去ってからも、音楽を通じてすばらしい祝福を送ることとなったのでした。
その「竹取物語」は母校の甲南中・高等学校のチャイムとなって、毎日芦屋の空に流れています。
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貴志康一記念室(山手町)
夭逝した貴志康一の写真や遺品と共に、彼が敬愛した父の遺品・詩聖ダンテの大理石像も静かに時を刻む。写真(右)は、ケンプとリハーサル中の貴志。
貴志康一記念室は、甲南中・高等学校の一角にあり、申し込めば閲覧できます。
※開室曜日等の問い合わせ先
甲南高等学校・中学校(TEL:0797-31-0551) |
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仏教会館(前田町)
川沿いに建つオリエンタル感覚の洋館。貴志の送別コンサートがここで開かれた。 |
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阿保親王塚(翠ヶ丘町)
静かな住宅地にあるこんもりとした森は、平安時代初めの皇族・阿保親王の墓とされる古墳。宮内庁が管理し、野鳥の楽園となっている。 |
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芦屋川沿いの石畳
シックなたたずまいの秘密は、石畳に本物の御影石が用いられていること。川沿いは桜の名所で、今年も「芦屋さくらまつり」で賑わった。国際色豊かな屋台が並び、ひと味おしゃれ。 |
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