気ままに歩いていて、ふと見ると、家々の向こうに海が晴れやかにきらめいていたり、空の夕映えを照らしていたりするとき。
また、雨上がり、間近な六甲の山肌からもくもくと水蒸気が雲になってのぼっていく様を見るとき。芦屋が海から山へ細長く伸びた街だと改めて実感するのは、そんなときです。
大正から昭和の初めにかけて、次々に鉄道が開通し、新しい住宅地が開発されると、大阪や神戸の市街地に暮らしていた実業家や芸術家、文化人らが競うように阪神間へ別荘を建てたり移り住みました。中でも人気を集めたのが、白砂青松の海岸があり、明るくのどかな芦屋でした。最初にひらけた浜側には、外国人のためアパートや、洋風料理で憧れを集めた洋館の「文化ハウス」があり、そこには夏場リゾートに来る外国人がステイして、華やかな上流の雰囲気があふれていました。その雰囲気はやがて次第に山に向かって街並みと共に広がり、芦屋らしさが形成されていったのです。
大正の頃、世界を揺るがしたロシア革命では、ロシアからの亡命者が日本に流れ込み、阪神間にも多数が定住したといいます。大正12年の関東大震災では、混乱を逃れて大勢の文化人が阪神間に避難。文豪・谷崎潤一郎もその1人です。芦屋に住む4人姉妹の物語「細雪」は、こんな背景から生まれた名作。
古き良き時代の良家の暮らしが香り高く描かれています。折しもヨーロッパの新しい芸術や文化を取り入れた自由で先進的なモダニズムの波が、阪神間に満ちてきた頃のことでした。
 
芦屋市立美術博物館   谷崎潤一郎記念館(伊勢町)
芦屋ルナホール(業平町)
芦屋警察署(公光町)
モダニズムを残す旧正面玄関のアーチの真ん中に、夜間警備の象徴・ミミズクの彫刻が。
阪急芦屋川駅を山側へ出ると、山手商店街。古き良き時代を偲ばせる医院やお店が健在である。こちらは昭和26年開業の和菓子店。京菓子とも神戸菓子とも違う芦屋菓子を創り続ける。
(TEL:0797-22-4974)
URL:http://www.ashiya-miraku.com/
マイセン、ヘレンドなど名窯のカップが選べて、優雅にいただける。流れるクラシックも大人時間にふさわしい。JR芦屋駅前ラポルテ本館1階。(TEL:0797-25-7887)
戦前のヨーロッパでヴァイオリニストとして活躍。その後、指揮者として1930年代にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のタクトを振った、華麗な経歴を持つ音楽家がいました。その名は貴志康一。大正8年(1919年)、小学生の時に大阪から伊勢町に転居。資産家の父は子どもたちの健康のために芦屋の浜辺に日本家屋を建て、音楽室を備えた洋館を増築し「メゾン・ダンファン(子供の家)」と命名して、わが子たちに惜しみない愛情と芸術にふれるチャンスを与えた人でした。絵にも天賦の才を発揮した貴志でしたが、色覚のハンディに気づき、中断していたヴァイオリンの練習に熱中します。
ある夜、その練習の音色を偶然に耳にした亡命ロシア人のヴァイオリニストが、バルコニーから突然現れ「あなたの指導をさせてほしい」と申し出たことから、本格的なヴァイオリンの道へと歩みだしたのでした。
17歳の貴志は旧制甲南高等学校を2年で中退し、ジュネーブ国立音楽院へ単身留学。その後さまざまな曲折を経て、ドイツを舞台に作曲や指揮で評価を高めていきます。指揮の巨匠フルトヴェングラーやベルリン・フィルなど当時の最高峰の音楽家たちとも交流を深め、交響曲、オペレッタ、バレエ音楽とエネルギッシュに創作を続けました。さらに、活躍の場を映画演劇へと広げ、父の出資を得て日本に「貴志学術映画研究所」を設立。
新しい映画を模索する研究者たちと、当時の日本の生活文化を紹介する短編映画を作り、自ら監督・俳優・音楽を担当します。その作品「春」と新たにドイツで見つかった「鏡」の2編は、昨年夏に東京国立近代美術館フィルムセンターで上映され、話題を呼びました。
昭和10年、26歳で3回目の渡欧から帰国した貴志は、翌年、観客の列が日比谷公会堂を一周したと伝えられる「第九」のコンサートで大成功を収めます。全曲を暗譜で華麗に指揮する貴志の姿は後年まで語り草になったとか。
また文化使節として来日したピアノの大御所ウィルヘルム・ケンプとの演奏会も話題を呼び、日本のクラシック音楽界で揺るぎない地位を確立しました。ところが夢叶ったその年に、多忙な中で盲腸炎をこじらせ、翌年28歳の若さで突然、世を去ったのでした。
昭和24年(1949年)スウェーデン・ストックホルムで開かれた華麗なノーベル晩餐会で、湯川博士の栄誉を讃え演奏された日本の曲を聴いて、同席した夫人は涙が出るほど感動したといいます。その曲は、夫人の女学校時代からの友の兄が作曲した「竹取物語」だったからです。奇しくも貴志は世を去ってからも、音楽を通じてすばらしい祝福を送ることとなったのでした。
その「竹取物語」は母校の甲南中・高等学校のチャイムとなって、毎日芦屋の空に流れています。
貴志康一記念室(山手町)
夭逝した貴志康一の写真や遺品と共に、彼が敬愛した父の遺品・詩聖ダンテの大理石像も静かに時を刻む。写真(右)は、ケンプとリハーサル中の貴志。
貴志康一記念室は、甲南中・高等学校の一角にあり、申し込めば閲覧できます。
※開室曜日等の問い合わせ先
甲南高等学校・中学校(TEL:0797-31-0551)
仏教会館(前田町)
川沿いに建つオリエンタル感覚の洋館。貴志の送別コンサートがここで開かれた。
阿保親王塚(翠ヶ丘町)
静かな住宅地にあるこんもりとした森は、平安時代初めの皇族・阿保親王の墓とされる古墳。宮内庁が管理し、野鳥の楽園となっている。
芦屋川沿いの石畳
シックなたたずまいの秘密は、石畳に本物の御影石が用いられていること。川沿いは桜の名所で、今年も「芦屋さくらまつり」で賑わった。国際色豊かな屋台が並び、ひと味おしゃれ。
芦屋にゆかりの深い画家の中でも、優れた絵画制作と芸術理論を遺したことで、高く評価されているのが長谷川三郎です。長谷川も小学校時代に芦屋呉川町に引っ越してきて、甲南小学校に転入。貴志康一の2級先輩で、家が近くお互いに絵が好きだったこともあって交流があったそうです。やがて長谷川は東京帝国大学で美学美術史を学んだ後、欧米へ遊学。古典や最新の美術に触れ、画家になることを決意して、日本へ。帰国後は洋画界でめざましい活躍を始め、次第に日本では先駆といえるアブストラクト(抽象画)へと傾注していきます。
長谷川の功績のひとつとされているのが、それまで日本では無名の存在だった日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチの人と作品を広く国内に紹介したことです。戦後、日本人が敗戦にうちひしがれ、アメリカの豊かさに目を見張っていた頃に、イサム・ノグチと出会い、お互いに日本の美とその精神性のすばらしさに共鳴し合ったことが、そのきっかけでした。以来、2人の親交が深まると共に、長谷川の絵が変化し始めました。西洋の画法と油絵から、禅の思想と書、水墨が一体になったダイナミックなアートの世界へと大きな変貌を遂げたのです。
貴志と長谷川、90年ほど前のほぼ同じ頃に芦屋で暮らし始め、この地で多感な少年時代を送り、大きな夢を抱いて芦屋から旅立った2人は、それぞれの生を終えた今も芦屋に根を下ろしています。2人の作品や思い出の品々は、長い時を経て、偶然にもそれぞれの遺族から母校・甲南高等学校に寄贈され、校内の一角に並ぶようにある貴志康一記念室と長谷川三郎記念ギャラリーに大切に保存されています。2人が遊び、学び、夢を見た頃の芦屋は面影もないほどに変わりましたが、坂から見晴らす海や見上げる山は往時のまま。芦屋はそこここに、ちょっと郷愁を誘うエピソードが息づく街なのです。
 
長谷川三郎記念ギャラリー
(山手町)

師事していた洋画家・小出楢重の影響が色濃い油絵(左)と、長谷川が生涯手放すことのなかっ
たギリシャ彫像のレプリカ(右)。長谷川三郎記念ギャラリーは、甲南中・高等学校の一角にあり、申し込めば閲覧できます。
※開室曜日等の問い合わせ先
甲南高等学校・中学校(TEL:0797-31-0551)
 
アンムット・フローリスト(月若町)
阪急芦屋川駅から南へすぐ。芦屋川のほとりにたたずむフラワーショップ&フラワーデザインスクール。センスの良さでふと足を引き寄せる。生花だけでなくプリザーブド・フラワーも人気。
(TEL:0797-23-8701) URL:http://www.anmut.jp/
 
※2006年4月取材
ジオシリーズマンションに関するお問い合わせはジオラブ梅田まで 0120-8923-01 受付時間:午前10時〜午後6時(水曜・木曜定休)